【2025注目の逸材】
おおうら・だいち
大浦大知
[埼玉/6年]
よしかわ
吉川ウイングス
※プレー動画➡こちら
【ポジション】捕手、投手
【主な打順】五番、六番
【投打】右投右打
【身長体重】146㎝49㎏
【好きなプロ野球選手】浅野翔吾(巨人)
※2025年5月20日現在
“大浦の一球”
もう一縷の望みもない。100%の絶望を前にしたとき、人はどうなるのだろう。うろたえるか、泣き叫ぶか、怒り狂うか、絶句するか…。いずれにしろ、平常心ではいられまい。
ところが、それでもまだゲームが続くということが、スポーツでは稀にある。勝敗は決しても、ゲームが成立していないケースだ。
吉川ウイングスの大浦大知は、小学5年生の6月に、そういう瞬間をマウンドで迎えた。全日本学童マクドナルド・トーナメントの埼玉県予選の準決勝、相手は山野ガッツだった。
昨年の全日本学童埼玉大会準決勝。大浦は第1打席のライトゴロでチームに1点目をもたらした(2024年6月8日)
最終スコアは9対5。激しい戦いだった。先攻のウイングスは序盤に先制されてから同点に追いつき、中盤に勝ち越してから一気に大逆転された。迎えた5回裏。3点リードする山野の攻撃で最初の打者が右打席いるとき、試合の経過時間が規定の90分に達した。
大目標としてきた「小学生の甲子園」出場の夢が、あと二歩でついえたウイングスの面々は、試合後に号泣。下級生だった大浦にも涙があった。しかし、絶望の暗闇で投じた勝負球が、眩いばかりの閃光を発していた。
「もう時間がない(90分間近)のは分かっていたし、追い込んだのでデッドボールでもいいというくらいに強気で勝負にいきました」(※当時の談話)
一発もある6年生を2球で追い込んだ大浦は、緩い球をはさんでからの4球目で勝負した。この1球だけは右腕を振る際に声が漏れ、リリース後は左つま先を残して体全体が宙に浮いた(=下写真)。こん身のストレートだった。
打者のバットは動かず。コースがわずかに外れたか、球審の手は挙がらずも、あちこちから「ナイスボール!」の声。そして、ふわりと投げた次のボールをものの見事にとらえられ、打者走者がダイヤモンドを一周したところで、球審から試合終了を告げられた(リポート➡こちら)。
“大浦の一球”は、ウイングスでは語り草になっているのかもしれない。智将・岡崎真二監督(=下写真)は最近になっても、「あのボールはホントに素晴らしかったですね。彼の想いとか芯の強さ、そんなものも感じました」と振り返っている。
本人も「あの1球は自信がありました」と語るが、問題はストライクか、ボールだったかではない。彼は間違いなく、あの勝負球で男を挙げた。
あれからおよそ1年。ウイングスは市内大会を制して、再び全国最終予選の最中にある。初戦の2回戦で大勝し、大浦も右中間に本塁打。次の3回戦は6月1日に予定されている。6年生となり副将も務める彼は、たぎる想いをこう集約した。
「監督を全国に連れていきたい!」
ハイスキル+アルファ
この4月から毎週木曜日の夜。大浦は千葉ロッテの通年スクールの「アドバンスクラス」に通っている。より本格的な指導を受けられる同クラスへ入るにはセレクションがあり、彼は「捕手」で試験を受けて合格した。
3つ上の兄に続いて1年生からチームで野球を始めて以来、最も多く経験しているのが、このポジション。全国区のウイングスでも5年生から正捕手に。「投力」が秀でているゆえ、先述のようにマウンドに立つこともあり、現在はクローザー役も任されている。
捕球、ストップ、送球、打球への反応。これらの基礎スキルが、元プロ選手からも一定の評価を得たのは確かだろう。打撃も非凡で、四番を打てるパンチ力もある。指揮官によると、本番でそれを発揮し切れていないことから、最近は五番か六番にいる。それでも、個人の目標とする「NPBジュニア入り」が現実味を帯びてきたようにも映る。
中3の兄は身長がもう178㎝。弟はまだ150㎝にも届かないが、母は165㎝もあり、背丈が伸びるのは時間の問題だろう。
「夢はドラフト1位で日本のプロ野球に入って、そこで活躍してからメジャーリーグに行って、大谷選手(翔平=ドジャース)を超えられるような選手になりたいです」
必ずしも夢物語に聞こえない。思わず一緒になって未来を想像してしまうのは、彼がたぐい稀なパーソナリティの持ち主であるせいだろうか。
冒頭の“大浦の一球”ではタフな内面がのぞいたが、それは魅力の一部でしかない。ヘタに自分を飾ったり、人に媚びる感じもないのに、誰からも親しみを込めて愛されている。岡崎監督は対外試合の後、相手チームの指導陣から決まってこう言われるのが自分の誇りでもあると語った。
「あのキャッチャー、素晴らしいですね!」
基礎スキルの高さは、ウイングスで積み重ねてきた個別特訓の成果に違いない。外部の大人たちが魅了されるのは、それプラスアルファがあるからだろう。
たとえば、走者なしでゴロが転がった際の一塁バックアップだ。高校生以上なら当たり前だが、やることも考えることも多くて消耗も激しいのが捕手。なかなかその段階までいかないのが小学生だ。
大浦はそれも確実にやる上に、常に全力。俊足ではないが、走り出すや片手でマスクを飛ばし、打球と野手を目視しながら、時には打者走者を抜かすことも。そして本塁へ戻る道すがらには、自分のマスクより先に、転がっている相手のバットを拾って渡したり(※プレー動画参照)。とりあえず叱られまいと、一塁方向へ走る素振りを見せるような次元で、彼は野球をしていないのだ。
「体力的にキツいこともあるけど、自分がそこへ動くことで仲間が安心して投げられる。とにかく、みんなで一致団結すること。全国大会に出るにも、チームの一体感が大切だと思っています」
筆者が初見でほとほと感心したのは、彼がまだ5年生になったばかりのころだった。投手へ返す1球1球が、ピュッと速いボールで胸元へ。それも状況により、捕球してすぐに投げ返すことがあれば、ゆっくりと立ち上がって歩きながら返すことも。
聞けば、いい加減な返球を注意されたことが低学年のころにあったという。でもそれで改めたわけではない。5年生に上がる前のある日、自分でいろいろと思いを巡らせていた中で、返球を見直すことに。その目的は――。
「2つあって、まずはピッチャーの気持ちを盛り上げたい。なので、ムカついたりして速い球を投げ返すのではなくて、捕りやすい球をスッと投げてあげるように。あとは自分の肩づくりです。ボクは中継ぎとか抑えでピッチャーをやることも増えてきたので、交代して最初から万全でいけるように、アップも兼ねて返球しています」
このように大人を相手にしても、言葉のキャッチボールができる。より話したくなる、もっと聞きたくさせる。そんな少年はまた、いつでもどこでも誰にでも挨拶ができる。その場に溶け込む空気のように、ごくごく自然に。
誰からも親愛される理由
いったいどうして、こんな満12歳が育つのか。野球とウイングスの教えが介在しているのは間違いないが、同様の経験をしている小学生は全国に数えきれないほどいる。取材した中で決定的と思われたのは、生まれた家庭と育ってきた環境だ。
大浦の両親は、福島県の浪江町の出身。4学年上の父・康孝さんは、小・中・高とサッカーに興じて、センターバックとして活躍した。母は学生時代は同様にソフトボールに興じて、浪江東中時代は「四番・捕手」で全国大会にも出場している。
そんなふたりが縁あって地元で結ばれ、長男を授かった。幸せな暮らしが一変したのが2011年3月11日。あの東日本大震災からだった。揺れと津波に遭った浪江町は、さらに原発事故で非難区域となり、無人の町に。母・陽子さんによると、現在は「帰宅困難地域」は町の一部となっているが、夫婦のそれぞれの母校もすべてなくなったままだという(新たに開校した小・中一貫1校のみ)。
一家は埼玉県に避難し、転居もしながら両親は懸命に働いてきた。「私は県外に出ることも多い仕事で、かといって生まれてきたダイチ(次男)を家に置いては行けなかったので、どこにでも連れていきました」(陽子さん)
行く先々に知らない大人がいる。これが幼い次男の日常となり、母は繰り返し説いてきたという。「知らない人でも、ちゃんとご挨拶をするんだよ」。
また社交的な両親の元には、来客も絶えない。こうした中で、大浦少年は人と会ったときの挨拶が当たり前に。人と人は挨拶ができると、コミュニケーションを取りやすいことも本能的に覚えたのかもしれない。母が笑いながら打ち明ける。
「今ではもう、私が知らないご近所さんもダイチを可愛がってくれていたりするんです。自宅のマンションの前でいつも練習しているんですけど、あの子は通る人みんなにご挨拶をしているので」
父・康孝さんは、次男には自分と同じサッカーをしてほしかった。実際、ボールを蹴ってもなかなかの幼児だったという。だが、長男の背中を追うように野球に染まり、今では自分もこの競技にドハマりしているという。
「長男が野球を始めたときに私があれこれと言い過ぎちゃって、その反省からダイチには野球を嫌いになってほしくない、というのが先に立ちました。でもあの子はチームに入って間もないのに、一番から九番バッターまでのモノマネをしてみたり、自分から練習を始めたり。ホントに野球が好きで、何か人と違うなというのが当初からあったので、余計なことは言わないようにしてきました」(康孝さん)
大浦はそんな父からひとつだけ、チームに入った当初に厳命されたことがある。今でもよく覚えていて、忠実に守っているという。
「お父さんから言われたのは『野球のうまさ以前に、ユニフォームの着こなしとか、挨拶とか、礼儀が大切。これができなければ絶対にダメだ』と」
誰かのために頑張る
挨拶や礼儀のほかは、両親には教育方針は特段になかったという。それでも、息子たちがやりたいことを一生懸命にやることには、協力を惜しまないというスタンスで来ている。
大浦は兄と通い始めた野球塾で、生徒仲間らと親しくなる中で学童の全国大会の存在を知る。そして埼玉県代表として、その夢舞台に2回出ている強豪チーム、ウイングスへ移籍を望んだ際も、両親が全面的に主導してくれたという。3年生の春、新天地にやって来た当初を「ビックリしました」と本人は回顧する。
「ボクは前のチームでは結構、上のほうだったんですけど、ウイングスはみんな上手で意識も高くて。指導者も選手一人ひとりに向き合ってくれて。試合でできなかったことをできるように教えてくれたり、ポジションもみんながいろんなところをやりながら、専門的な練習をしたり…」
そんなチームで正捕手となって2年目。指揮官からの「圧」という期待を頭で理解し、全身で受け止めて努力を重ねている。火曜日は英語、金曜日は習字にも通いつつ、平日は朝晩の野球の自主練習を欠かさない。そんな大浦の人間性に、新たな成長を指揮官は認めているという。
「リーダーシップですね。チームとしてまとまるには、誰かがどこかでそれを発揮しないといけない。彼は自分のことを差し置いてでも、みんなのために率先するところが見受けられるようになりました。それも試合中に限らず」(岡崎監督)
影響力は下級生にも及ぶ。ポジション別の練習では、5年生の同じ捕手に対して手取り足取りのアドバイス。指揮官がもう教えることがないくらいに、親身で熱心だという。
捕手としては先輩で、大浦もまだ知らない全国経験者である母は「今はもう彼にはかないません」と白旗を挙げている。でも、「誰かのために頑張る」ことの尊さを過去に説いたことがあるという。
「浪江の人たちはみんな離れ離れで、まだ避難所生活とか、苦しんでいる人もいます。でも、ダイチの活躍が乗っている新聞記事を送ってあげたりすると、みんなとても喜んでくれるんです。それを本人に伝えたことはあります。『あなたの活躍がいろんな形で人を元気にさせているんだよ』と」(陽子さん)
小学生の肩には、いささか重過ぎるのかもしれない。でも、直接的な絡みではないにしろ、大浦が男を挙げた背景には、母のそういう励ましもあったことは動かぬ事実。一方の父は、かつて自分が躾けたはずの息子の礼儀やマナーに、今では感心させられることもしばしばだという。
「誰にでも挨拶できて、ウソもつかずに礼儀正しくて。このまま大きくなってくれたら。あとは健康で生きてくれたら。ダイチの未来に願うのはそれだけです」(康孝さん)
(動画&写真&文=大久保克哉)